地かつら老田

「地かつら」の素晴らしさを現代に伝えると共に「かつら岡米」の技術を守り続ける

岡米かつら

関東大震災

 大正十二年、二十五歳になって、父からあとを継いだ商売も順調に向かい始めました。

ところが、傷んだ家や蔵を大修理したり、大きなミシンを買い入れて、八月三十一日の支払いを済ませたその翌日、関東大震災に遭遇しました。
帝劇やら明治座、公園劇場、常盤座、観音座などに置いてあった何千枚ものかつら、家では父自慢の土蔵に床から天井まで一杯につめたかつらがすべて灰になってしまいました。
頼みの保険も用をなさず本当の裸一貫。どうなるのかと頭を抱え込んでしまいました。

 東京では芝居もかからず、舞台関係者はみんな関西へ行きます。私も大阪の喜劇、曾我廼家五九郎さんに信用されていたのをたよって、関西に行きました。
 しかし、関西ですぐ軌道に乗ったわけではありません。それに、関西の職人さんにとっても突然やってきた関東の職人を快く思うはずがありません。
ないないづくしの関西でしたが、役者さんたちが喜んでくださるのを心の支えにして、かつら造りの励み、その結果、大阪・心斎橋に支店を出せるまでになりました。

 震災の復興とともに私は浅草に戻り、崩れた土蔵の跡にバラックを建てました。バラック建てから本建築にしたのは昭和三年。
引退した父は、新しい仕事場で、若いものの仕事振りを見つめているのが楽しいような日課でしたが、翌年、昭和四年の九月に亡くなりました。
頼りになる父を失った悲しみはとても深いものでした。

昭和3年、本建築となった岡米本社前での三社祭の風景


写真左:浅草のお店のショーウインドー
写真右:大阪心斎橋にあった岡米の支店

-岡米かつら