地かつら老田

「地かつら」の素晴らしさを現代に伝えると共に「かつら岡米」の技術を守り続ける

岡米かつら

私の小僧時代 その1

2017/06/09

私は、明治三十一年七月十五日、父・米吉、母・たか、の三男であり、
“かつら屋のせがれ”としてこの世に生をうけました。
 幼い頃を思い出してみますと、浅草が吉原田圃などといわれとぉり、私の家からまっすぐ歩いていくと吉原の土手に突き当たり、その土手を上がると南千住がそっくり見え、原っぱへカエルやトンボをとりに行ったことを覚えています。

 私が、かつら屋の道を歩み始めたのは、小学校を卒業した十三歳の頃のことです。ある日、
父が私に「大勝さんへ修行に行け」と言いました。後継者に私を選んだのは、私が小学校の頃から手工(今でいう工作)が得意だったからでしょうか。二人の兄に相談しても「かつら屋を継ぐのは、お前がいいだろう」ということになり、私の奉公が決まりました。

 当時は、どんな仕事でも年季を入れなければ何事もできない時代でした。父との関係で以前から大勝さんのご主人には大変可愛がっていただいておりましたので不安もなく、明治四十四年、六月の天一天上と呼ばれる好い日に、角帯をしめてもらって父に連れられて大勝さんに奉公にあがりました。宝庫にあがって三年くらいは、子供心にも相当辛い毎日でした。
朝は六時頃に起こされて掃除にかかり、食事を済ませて八時には仕事にとりかかっていなければなりません。大勝さんにはご主人や職人さん、小僧などを含めて三十数人いましたから、最後に食事をする小僧たちには、お味噌汁の具が残っていないこともありました。

 この頃の仕事は、朝から晩まで、じっと座って、十本持った針に一本づつ毛を通して針刺しに刺す…単純ではありますが大変に細かく、神経を使う仕事でした。慣れるまではスピードも遅く、羽二重にこの毛を植える職人さんに怒られもしました。その度に、誰よりも早く毛を通して小僧を卒業し、一人前になりたいと思ったものです。

 大勝さんは、歌舞伎の頭専門でしたから、舞台の日程にあわせて仕事を進めます。その頃は月に二十日は舞台が開きましたから、二十日間は夜中の十二時過ぎまで、初日が近くなると夜中の二時、三時はあたりまえで働いていました。睡眠不足が続くと、仕事中でもつい眠たくなってしまいます。座ったままの姿勢でうつらうつらしていますとドサッという音で目が覚め、見ると同僚が丸くなって倒れてそのまま眠っていることもしばしばありました。私は、眠くなっても倒れないようにと洗濯板を買い、自分で使いやすいように削って胸にあて、ずれ落ちないように腰に紐を通し、背中で結んでおいたこともありました。

 辛い修行の中での楽しみはお使いに行くことでした。一日中、座っている仕事ですから、気分転換になるということもありますし、大勝さんと私の実家が十丁ほど(銀座八丁目から京橋くらいでしょうか)しか離れていませんでしたから、お使いに行った先のご主人や奥様からいただいたお駄賃で電車にのって時間を浮かし、家に寄ることができたからです。父が不在の時は、母が大層優待してくれましたが、父が家におりますと「すぐ帰れ!」と厳しく叱られました。父は、厳格でしたから、休日でもないのに実家に帰ってくることを許さなかったのだと思います。

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※写真
大正11年12月、店を持って初めての吉例観音様の年の市の買い物

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