地かつら老田

「地かつら」の素晴らしさを現代に伝えると共に「かつら岡米」の技術を守り続ける

岡米かつら

私の父・岡田米吉

2016/12/20

かつら造りに生涯をささげて

「岡米」の歴史は、私の父・岡田米吉が、明治十八年、浅草の観音様の近く、仁天門通りに開店してから始まります。

父が独立するまで、十歳の時から、二十年間、奉公にあがったのが、現在の浅草警察書の近くに在ったかつら屋「大勝」さんです。

大勝さんは当時、日本一のかつら屋といわれておりました。その名声は、歌舞伎役者の芸談や衣装などを調べていると名前がでてくることでもわかりますが、九代目団十郎丈、尾上菊五郎丈、市川左団次丈といった名優たちのかつらをてがけていたことでも明らかです。
私が幼いころ、父は、初めて九代目さんの頭合わせをした際に鏡中が九代目さんの目の玉でいっぱいにみえたことなど、名優たちの話をよくしてくれました。

岡田米吉
昭和3年頃 私の父、岡田米吉

兄弟
私の兄弟、前列左から、次男、長男、妹、後列左から私、弟

父の独立は、母との結婚で始まります。かつら職人と質屋の娘ということで、普通なら反対されてもおかしくない時代でしたが、父が養子となることでまとまりました。とはいえ父はかつら師。質屋を継ぐのは祖父も惜しいと思ったのでしょう。長男に質屋を継がせる、次男は父の実家に、と話は決まり、父はかつら屋として独立することができたのです。
 岡米の屋号で開店の日には、家の子郎党が一同に会し、鴨雑煮で祝ったそうで、以来それが吉例となって十二月十五日は鴨雑煮をつくるようになりました。このしきたりは、今日に至るまで百余年、父の偉業を偲んで続けております。

 当時父は、ご主人(大勝さん)のお店とあまり離れておりませんでしたので、歌舞伎のかつらには携わらず、川上音次郎一座など、新派の起こりといわれる壮士芝居の頭を造り、ついには‶新派の岡米″とまでいわれるようになりました。その頃、新派は興業的に恵まれない事もあったそうですが、かつら代が出なくても多くのかつらを造り、新派の興業に協力していたようです。そのこともあって、後に私が関西にまいりました時、当時の興業主の方々から、大変よくしていただきました。

 また、お正月には、お店の一階を解放して御神楽舞を行いました。獅子舞い、おかめ、ひょっとこが舞う姿を毎年楽しみにしているご近所の方も多く、お店の回りに多くの人垣ができたほどです。こんな時も父は、「地元への利益還元だから」といってご機嫌でした。

 私の独立後は、潔く現役を引退。祭り好きということもあって三社様の総代として活躍し、浅草のよろず相談役といった感がありました。
 そんな父の人柄を表すエピソードを戸板康二先生が昭和五十二年発行の雑誌「演劇界」の中に書いてくださいました。それによりますと、大正八年に九代目団十郎の銅像を浅草公園に作ると決まったときのこと。除幕式の直前になって、「浅草の興業組合に無断で除幕式を行うのはけしからん」と三社の氏子代表が激昂しました。祝辞に、渋沢栄一、田尻稲次郎(東京市長)、床次竹二郎(内務大臣)、大谷竹次郎(松竹社長)、中村歌右衛門というそうそうたるメンバーが顔を揃えるにもかかわらず、総指揮をとる木村錦花氏にご注進したのが私の父であったそうです。

 当時、先生は大学生さんで、演劇にたいへん興味をお持ちでしたので、私のお店にも、しょっちゅうおみえになっておられました。

 評論家として大成なされた先生が、しがないかつら屋の「岡米」を覚えていてくださったことを大変うれしく、また、なつかしく感じました。

 浅草のこの銅像は、太平洋戦争の金属供出で消えてしまいましたが、今から五、六年前、歌舞伎座百年を記念して、関係者の方々によって立派に建て直されました。

-岡米かつら