地かつら老田

「地かつら」の素晴らしさを現代に伝えると共に「かつら岡米」の技術を守り続ける

岡米かつら

ネットの開発 その4

2017/12/18

立役の大矢市次郎先生に私が「新派の仕事を辞めたので、親父は怒っているかもしれません」と話をしたところ、大矢先生は「新派の岡米が日本の岡米になったのだから喜んでいるよ」といってくださいました。
 この頃は、一般では、花嫁さんの頭としてかつらが求められていました。何万というお客様のかつら合わせをしている私は、一枚のかつらで、誰にでも帽子のようにかぶせられるのでは、決して良い品ができない…今でもこの信念は変わりません。そんなときにかもじ屋さんが、誰でもかぶれるかつらの既製品を造り、だいぶ商売をしたようでした。岡米では、かつらの特許を盾にかもじ屋さんのかつらを抑えられたのですが、そうはしませんでした。そのためかもじ屋組合から感謝されております。
 私のように永い年月かつらを造っておりますと、かぶれればいいというだけのものでは自分の気持ちが許しません。かつらが流行るようになると髪結いさんにお客がなくなると言われて憎まれ、意地の悪いことをされたりもしましたが、日本髪と短い洋髪とでは生活の便利さに大変な違いがありますから、「これからは、自然の要求でかつらの時代になりますよ」と髪結いさんに説いたこともあります。そのうち、はやくからかつらの結髪を勉強して、上手に結上る床山さんも多くなりました。
 中でも早くから、私のかつらの結髪を研究して、お客様の好みを把握し、芝居に、舞踊に、一般用にと東奔西走して”岡米かつら”を広めるために一役を担ってくださった、今は亡き竹前弥之助父子、橋本達三郎さん、宇佐美豊次さんを忘れることはできません。特に、私の生涯を通じて長きにわたって夫婦のようなおつきあいであった宇佐美さんの結髪は名人芸であったと思います。

芝居の中の一場面(かつらの結いあげは宇佐見豊次氏)

-岡米かつら