地かつら老田

「地かつら」の素晴らしさを現代に伝えると共に「かつら岡米」の技術を守り続ける

岡米かつら

ネットの開発 その3

2017/11/28

新しいネットのかつらを考案してしばらく後の昭和八年、銀座のお店が火事にあってしまいました。近所に売り物の店があるということでしたので、地主の”ゑり治”さんに相談すると「土地は売れないが浅草のあなたのお店を信用して貸しましょう」との返事。早速ショーウインドーをつくり、銀座ショールームとして店を構えたのが現在の場所です。
 当時、表通りから、かつらの仕事をしているのが見えるお店がない時代でしたから、作家や絵かきの有名な先生がお見えになられたものでした。それから、芸者衆のかつらが全国的に売れ出したものです。
 私は、かつらの頭あわせに大阪、京都、名古屋、九州、北海道と広範囲な地域をくまなく歩きました。谷崎純一郎先生の細雪の中に記されたこいさんの地唄舞の「岡米かつら」もこの頃のことです。
 そのうち、地かつらが大変忙しくなって短い時間で芝居のかつらを造ることができなくなり、昭和十一年、花柳先生からお暇をいただくことになりました。しかし、その後も花柳先生の難しい頭の場合は仕事をさせていただいたものです。

 なかでも印象に残っておりますのは、伊井先生の角刈りをモデルにして造った、水谷八重子先生と鶴八八重子先生と鶴八鶴次郎の初演の時の頭や昭和三十八年、新橋演舞場で上演された谷崎先生の「台所太平記」です。
「台所太平記」の主人公”千倉磊吉”は、谷崎先生その人にあたることもあって、花柳先生は谷崎先生の着物をそっくり使用し、メイクにも非常に趣向を凝らしました。かつらもそのひとつで、”半白の五分刈りで、バリカンのあとがみえるもの、しかも地薄に”という難しいものでした。先生自らが銀座のお店に出向いてこられて細かい指示をされたものです。苦心の末に出来上がったかつらをかぶった舞台の磊吉は、谷崎先生そっくりという評判を得て大成功しました。
 花柳先生の思い出とともに、このかつらは私の手元に大切に保管していたのですが多くの方に花柳先生の思い出をと考え、昭和五十八年、早稲田大学坪内博士記念「演劇博物館」に寄贈いたしました。

「台所太平記」のバリカン刈りかつら

「台所太平記」の花柳先生

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