地かつら老田

「地かつら」の素晴らしさを現代に伝えると共に「かつら岡米」の技術を守り続ける

岡米かつら

太平洋戦争勃発

 第一次世界大戦を経て、昭和十六年、太平洋戦争が勃発しました。
 あれほど栄えた芝居もなくなり、一般夫人もお化粧どころではありません。国中が軍需産業一色にぬりつぶされ、街にはパーマネントはやめましょうの声さえ起りました。政府からは、かつらはぜいたく品と思われていたのでしょうか、商売はやめて慰問のかつらだけにしろ、といわれたのです。浅草のお店は、小学校の近くだった事もあり強制的に立退き。三十坪ほどの土地でしたが、父から受け継いだお店と立派な土蔵あってどうしても手放したくはありませんでしたが、お国にたてつけば、非国民と言われた時代です。五百円ほどの現金と感謝状一枚もらって、泣く泣く手放してしまいました。さらに、八重洲にあった四階建てのビルも築地署の目に留まり、署員を留めるアパートとして徴用されました。残された銀座へ、全ての道具を持って移りました。

 今思っても、この時期は本当に悲しい時代でした。長谷川一夫先生の座員に加えて頂いた実の妹も、昭和二十年三月十日、明治座で戦災に遭い亡くなりました。後に、長谷川先生のご好意で築地本願寺において二,三の方々と手厚いご法会を営んでいただきましたことは忘れがたく、感謝の念でいっぱいでした。今でも忘れることはできません。
 昭和二十年八月、戦争が終わりました。当時の銀座界隈は見渡す限り無残な焼け野原。その瓦礫の中で、岡米の付近だけが不思議に焼けずに残っていたのは、運が良かったとしか言えません。店が戦火を浴びていたら、私は行く当てもなかったでしょう。


長谷川一夫先生(中)を囲む春日野八千代さん(左)と越路吹雪さん


長谷川一夫先生のあでやかなかつら姿


長谷川一夫先生の座員当時の妹

-岡米かつら