地かつら老田

「地かつら」の素晴らしさを現代に伝えると共に「かつら岡米」の技術を守り続ける

岡米かつら

修行を終え、いよいよ独立へ その2

2017/07/21

 先日、テレビをみておりましたら、“日本初の映画”の番組に伊井先生の忠臣蔵が紹介されていました。その時のかつらは私が造ったもの。誰もが映画は初めてということで大変苦労したこと、撮影が行われた名古屋まで伊井先生のお供をしたことなど、なつかしく思い出されました。

 またその頃、花柳章太郎先生からもかつらの話が出ました。その時、伊井先生に「私はね、花柳くん。男の頭なら責任を持つよ(伊井先生は男役だったので)。女のかつらはどうなのかね。だが、子供の頃から知っている熱心な子だから大丈夫だと思うよ」とのお言葉添えをいただき、花柳先生や河合武雄先生のお仕事もさせていただけるようになりました。

 伊井先生には、新派に対する適切な助言、励ましのお言葉なども数多くいただき、その感謝の念は筆舌に尽くしがたいものがありました。

 大正の末期は演劇界の全盛で、新国劇の沢正(沢田正二郎先生)が意気盛んな頃、こんなことがありました。

 なんという芝居か忘れましたが、初日前夜の舞台稽古のとき、田辺若雄という若手の役者さんの演技が気に入らず、沢正さんは「明日からオレがやる」と言いだしたので、かつらを新しく造らなくてはなりません。沢正さんは、間に合わないなどと言わせない厳しい方でしたので、夜の十二時過ぎから頭合わせをし、夜明かしでかつらを造りました。とはいっても仕上げの時間がありませんでしたので、毛を丸めたまま床山部屋に持ち込んだのです。心配していた沢正さんは、かつらを見るなり「キミ、注文と違いじゃないか」と怒鳴る。私は「先生、まだ仕上げてないのですから、任せておいてください」とお願いして、先生が見ている前で仕上げました。出来上がったかつらを頭にかぶせましたところ、「キミは頭がいいなあ」と褒められました。

 ほっとしたのもつかの間、私はすっかり忘れていましたが、その日は、私の結婚式だったのです。家では、家族のものや新婦がまっていたそうですが、待てど暮らせど新郎は帰ってきません。しかたなく、新郎なしで結婚式を終えてしまいました。今から思えば、笑い話のようですが、当時は職人にとって仕事第一。仕事をなによりも優先させるのは当然のことだったように思います。

【なつかしい新派初期の事の芝居、映画 伊井先生作品】



写真左:尾上菊五郎丈(右)昭和6年12月
写真右:尾上菊五郎丈と先代守田勘弥丈

-岡米かつら