地かつら老田

「地かつら」の素晴らしさを現代に伝えると共に「かつら岡米」の技術を守り続ける

岡米かつら

戦後の復興 その2

2019/02/22

昭和三十六年には、大津の蝉丸神社から移した毛塚塔も完成。東京で髪の毛に関する神社ができたのは、おそらくはじめてのことで、新聞や雑誌にも紹介されました。今でも毎年一回、祭っております。
 小林さんが亡くなって、東京かつら協会の会長は、私が継ぎました。かつら業界で私が最長老であったことや、大勝さんで修業したものが私ひとりになってしまったこともあります。
 私は、関西(大阪の心斎橋)に支店があったため、関西のかつら協会とも懇意であった関係で、関東と関西を結んでかつらの発展に努めてまいりました。海外から、良い素材を輸入するときは大量に買い付けなくてはなりませんでしたから、関西にも声をかけて一緒に輸入したものです。
また、毎月一回は交流会を開き親交を深めました。会長職は、十五年続けましたが、この間、同業者の中にかつらの特許を取ろうとするお店があり、製造過程の中でずっと以前から岡米が考えて、もはやその上の段階となり一歩進んだかつらを造っていたにもかかわらず、初歩的な植え方や造り方を新しく考えたように申請され、特許を取り消さなければ多くのかつら屋さんやかもじ屋さんが困るということで、発明協会を通じて何度か論争しました。私は、この頃は特許を一つも申請していませんでした。技術をみんなのものにすれば、かつら業界の品質向上につながると考えたからです。それで、会長を次の方に引き継いでからも永久会長などと呼ばれて、なにかあると立会人として出席しております。
 昭和三十一年、六代目歌右衛門丈が記録映画に出演することになりまして、私がそのかつらを造らせていただきました。歌舞伎の方が映画に出演するのはこれが初めてであったと思います。歌舞伎は羽二重のかつらですから、リアルで自然なネットのかつらをかぶった歌右衛門丈はそれはそれは美しかったものです。歌右衛門丈の一番美しいときの姿を映画で残したい、という希望にお応えできたことは私の喜びであり、当時、松竹の会長さんであった大谷竹次郎さんも大変喜んで下さいました。
 このすぐ後、梅幸丈が大映の霧笛という映画に出演されましたが、この頭も私が造らせて頂いたものです。さらに、杉村春子さんの「女の一生」の頭は長いおつきあいの中、思い出深いものがあります。


毛塚塔完成を祝って


昭和36年、大津の蝉丸神社から移した毛塚塔

-岡米かつら