地かつら老田

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岡米かつら

私の小僧時代 その2

2017/06/23

しかし、奉公にあがって数年後、こんなこともありました。先々代の段四郎さんの〝有馬の猫〝の芝居が本郷座にかかったときのこと。猫の耳が立ったりねたりする仕掛がありました。
長丁場のため、耳がねてしまい、立てようと思ってもなかなか立ちません。後ろの琴糸で操作するのですが、なかなかうまくいかず段四郎さんからダメがでます。この時、父に聞きに行きましたところ、喜んで教えてくれました。

 修業時代の休日は、年に数えるほどでした。お正月とお花見の時期、お盆くらいではなかったでしょうか。その日が待ち遠しくて待ち遠しくてたまりません。初めてのお宿りの日などうれしくてなかなか寝つけませんでした。朝早く起きてご主人に「行ってまいります」とあいさつに参りましたところ「まだ夜中だぞ」と言われ笑われたものです。

 休日といえども一日だけ。家に帰ってご馳走をおなかいっぱい食べることぐらいしかできませんでした。当時は娯楽もあまりありませんでしたから、ご馳走をたべて眠ることが、なによりの楽しみだったのです。

 しかし、歌舞伎は大好きでした。かつらを届けるために、歌舞伎座に通ううちにセリフを覚えてしまいます。帰ってからみんなの前で、覚えた場面を演じて見せたものです。なんの芝居の時だったか、舞台の終了後にかつらを届けたことがありました。一度舞台の上で演じてみたいと思っておりましたから、下駄を脱いで花道に上がり六方を踏んでおりますとどこからか俳優さんか、大道具さんが近寄ってきて、「小僧、筋がいいな、役者になれ」と声をかけられ、顔を真っ赤にして走って帰ったことがあります。あの時の恥ずかしさは、今でも忘れられません。

 また、こんなこともありました。私の芝居好きを知ってか知らずか、役者が足りないから舞台に出てくれと頼まれたのです。いつもは、舞台の裏方。その私が舞台に出るとは思ってもいなかったのですが、“どうしても”ということで出演しました。舞台に出たのは、この1回きりですが、歌舞伎に素人が出演するなんて今では考えられないこと。当時は、歌舞伎の世界もずいぶんのんびりしていたものだと思います。

 当時の小僧には、お給金はありませんでしたが、お盆とお正月には着物を持たしてくれて、足袋と下駄を買いなさいということで一円のお小遣いをいただきました。私は、足袋と下駄を実家で買ってもらい、その一円を自分の小遣いにしたり、掃除をしたゴミの中からクズ銅とか毛クズを拾い集めて屑屋に売ったお金をみんなで分けたり、お使いの電車賃を浮かしてお小遣いを作りました。当時、浅草には、夏はかき氷、冬は焼芋屋さんになる屋台がたくさんあり、そのお小遣いで、四本で一銭の焼芋を二銭分買い、寒い日には懐に入れて暖をとりながら帰って、若い小僧さんたちとわけあって食べたものです。

 お小遣いというものを毎月いただけるようになったのは、五年目ぐらいからでしょうか。
この頃になりますと自分よりも若い小僧さんが奉公にあがってきましたので、私もだいぶ楽になりました。

 思い起こせば楽しいこともありましたが、やはり、辛いことが多かった小僧時代。逃げ出そうと思ったことも一度や二度ではありません。でも、最後まで続けられたのは、家が近所であったことや父から二代に亙ってお世話になっていたこともあり、大勝の若旦那や職人さんたちは父が仕事を教えた人たちで、父はその人たちから“オヤジ”とか“兄貴”と呼ばれて親しまれておりましたので、その息子である私を大変可愛がっていただけたからだと思います。

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「大勝」の仲間と4月にお花見へ

-岡米かつら